夏子のニューヨーク通信 《15》 10/9/14
”死について考える”
先日、9月4日に義兄があっという間に死んでしまった。彼は、私の主人と双子であり、たった一人の兄弟である。
二人は顔も体も、ものの考え方も、とてもよく似ているし、小学校から大学まで同じで、その後も同じところに就職しているので、
お葬式の後に主人が高熱を出したときには、ちょっと びっくりしてしまった。
”死”まで 似ていたらどうしようと心配してしまったのだが、今は大分落ち着き大丈夫のようで安心した。
義兄は、私と同じ年の奥さんを27年前になくし、その後、ずっと一人で二人の息子を育てた。 彼は我々の住んでいるところから5分もかからないところに住でいるので、私の料理を良く食べにきてくれた。 亡くなる3週間前にも、いつもと同じように我々の家へ来て夕飯を食べて帰った。 私の主人と比べると弱々しいとは思うけれど、その日もいつもと変わらないように見受けた。
しかし、だんだん弱って、ベットから起き上がれなくなったが病院へは行かないと宣言した。
頭はしっかりしていて、毎日介護に行っていた主人と昔の思い出ばなしを楽しんだ。 私には、”料理がいつもおいしかったよ”と言ってくれた。はじめの一週間は水をのみアイスクリームも食べたが、しばらくして何も受け付けなくなり、息を引き取った。
自分のベットで、苦しまないで死んだのは、大往生というのだろうか?
臨床体験では、人は死ぬ前に何かとても美しく楽しいものに囲まれるとあるが、私はそんな風に思えない。”死”とは今まであった命という一本の ヒモ がぷっんと切れる、ただそれだけであるような気がする。義兄の死を見ていてますますそんな風に感じてしまう。 死後の世界があればよいけれど、私には、考えられない。
人は死ぬとき (1.) ”あ~、私の人生は幸せなものだった。 (2.) ”あ~、生まれてきてよかった” と思うだろうか? それとも (3.)”な~んだ人生って、これだけのものだったのか~” と思うだろうか? または、(4.)なんにも考えずに だだ生きたように ただ死んでいくだろうか?
私は、どちらかというと(3.)になりそうである。 しかし、生まれてきてしまった以上、せめて、すべてのものに感謝をしながら、死にたいものである。
NYは紅葉がはじまり、寒いくらいの毎日です。 外で絵を描けるのもあまり長くありません。
今回の絵は Union Squreで描いたものです。